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Re: 同じ先祖と思われます

 投稿者:金井輝夫  投稿日:2012年10月12日(金)16時06分40秒
返信・引用 編集済
  > No.9[元記事へ]

熊谷の金井さんへのお返事です。

> 埼玉県熊谷市在住の金井と申します。本HPを本日発見しました。
> 父(昭和三年生まれ)はすでに他界しており、先祖の詳細はわかりませんが
> 父の実家は、広木であり自分もよく行っておりました。お寺から降りてきた
> アスファルトの通り沿いあたりに、父の実家はありましたので、同じ先祖かと思われます。
> 非常に参考になりました。ありがとうございます。

熊谷の金井様

本掲示版をご覧いただきありがとうございました。つたない文面で解かりにくい所が
多かったと存じます。 ご参考になったでしょうか?
御父上が広木の出身なら間違い無く当家と同じ家系と思います。
私は、東京で生まれ昭和13年に広木に引っ越し、大学入学まで暮らして居ました。
広木の中宿で暮らしていた場所は、南雲商店の道路を挟んで反対側で、
田村家の西隣でした。掲示版にも書いておきましたが、大興寺に金井家の御墓が
23家あります。全て当家から分家したものと思われます。
当家に有る古文書は、全部埼玉県の文書館に預けて有ります。
現物をご覧になる場合は、県庁の側にある文書館にお運びください。
何か、他にもございましたら私の知っている事は、ご返信致します。
御遠慮なくどうぞご指示下さい。
                                                                     以上

                               さいたま市の金井輝夫 

http://9317.teacup.com/inaka/bbs

 
 

同じ先祖と思われます

 投稿者:熊谷の金井  投稿日:2012年 9月17日(月)02時39分47秒
返信・引用
  埼玉県熊谷市在住の金井と申します。本HPを本日発見しました。
父(昭和三年生まれ)はすでに他界しており、先祖の詳細はわかりませんが
父の実家は、広木であり自分もよく行っておりました。お寺から降りてきた
アスファルトの通り沿いあたりに、父の実家はありましたので、同じ先祖かと思われます。
非常に参考になりました。ありがとうございます。 
 

猪飼半助 正弾 書状

 投稿者:金井輝夫メール  投稿日:2010年12月 3日(金)20時51分10秒
返信・引用 編集済
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Ⅳ-5、近世文書の写真とその内容

  5、猪飼半助正弾 書状 宛先 大興寺 様 常福寺 様 清統院 様 人々御中

    一筆令啓上候然者同名
    半六郎相果候ニ付早々
    御使僧殊ニ一種被掛
    御意ニ誠ニ御心入之段不
    浅忝存候我等心底之
    段々察可被下候右之
    為御礼如比ニ御座候
    恐惶謹言

         猪飼半助

     四月四日  正弾(花押)

    大興寺 様
    常福寺 様
    清統院 様

   人々御中

http://9317.teacup.com/inaka/bbs

 

小笠原大和守の書状

 投稿者:金井輝夫メール  投稿日:2010年12月 3日(金)17時49分38秒
返信・引用 編集済
  Ⅳ-4、近世文書の写真とその内容

  4、小笠原大和守(小笠原長宣) 書状 宛先 メ 大久保三郎左衛門 様

御 報
     尚々八郎田之事
     此方口口口無沙汰候
     是又御才覚可被成候
     不苦候ハゝ其節源左十左御供存候以上
   昨日者預示教も立而
   御留主にて可有御座由懇
   御話不申入候如仰久々に
    得御意珍重存候隋而
    左兵衛事可参之由
   致満足候明日被是
   日限可申入候謹言

      廿九日  (花押)

      小笠原大和守

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井伊掃部頭の書状

 投稿者:金井輝夫メール  投稿日:2010年12月 3日(金)15時04分56秒
返信・引用 編集済
  Ⅳ-3、近世文書の写真とその内容

  3、井伊掃寺部頭(井伊直孝) 書状 宛先 進上 村越次左衛門(茂助)様人々御中

  以上

 為節供之御祝儀御来義
 忝令存候為御礼奉墨礼候
 必々不及御報候恐惶謹言

  腕振申故をして御免被成候

五月六日     直孝(花押)

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酒井雅楽頭の書状

 投稿者:金井輝夫メール  投稿日:2010年12月 3日(金)11時29分53秒
返信・引用 編集済
  Ⅳ-2、近世文書の写真とその内容

 2、酒井雅楽頭(酒井忠清) 書状 宛先 長徳院人々 御中

今度留守中者御見舞
忝存候為其如比候恐惶
謹言

  九月十六日 忠清(花押)

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松平陸奥守の書状

 投稿者:金井輝夫メール  投稿日:2010年12月 3日(金)10時57分7秒
返信・引用 編集済
  Ⅳ-1、近世文書の写真とその内容

 1、松平陸奥守(伊達綱村)書状 宛先 上池院人々 御中

  一筆令啓候今度御能拝見
  難有仕合奉存候為祝儀来ル
  廿五日能令奥行候五半時囗
  御入来可念候 恐惶謹言

   七月十一日  綱村(花押)

   囗は判読不明文字です。

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埼玉県(武州鉢形城関連の金井家

 投稿者:金井輝夫メール  投稿日:2010年 6月 8日(火)14時59分30秒
返信・引用 編集済
  Ⅰ、金井家の所蔵古文書の概要

  私は、現在浦和に住んでいます。
  現住所表示で埼玉県児玉郡美里町広木に武州鉢形城主 北条氏邦から金井源左衛門尉に知行地と
  して宛てがわれた場所の金井家に伝わる古文書について説明致します。
  私の祖父母と父は、広木の家屋敷をそのままに、その管理を親戚に依頼し、東京に転居したよう
  です。 父は広木生まれの一人っ子で、転居後勉学に励み、東京府の建築局に役人として勤務し
  ていました。祖父は53歳で亡くなったと聞いています。私は昭和のはじめに金井家の長男とし
  て東京で生まれました。突然の支那事変の勃発と父の出征で祖母は、父を頼りにすることが出来
  なくなり、金井の本家をどうしたら守れるのかと思案した結果、私をつれて故郷の広木に戻るこ
  とを決断したのではないかと考えられます。
  生活に不便な茅葺の古家を壊し、小さな家を新築し祖母と私、2人の田舎暮らしが始まりました。
  母と妹は東京に残りましたので金井家は東京と広木の2重生活となりました。其の後、父は無事
  に兵役を全うし帰還致しました。私と祖母の移住当時広木には墓所と分家で少なくなりましたが
  家屋敷、山、畑等がありました。現在は墓所だけとなっています。
  大学入学まで祖母(明治の女)の叱咤激励で広木の風習や山、畑の仕事も覚えました。
    この経験で、すこし先祖に近ずけたのではないかと思っています。私のルーツ探索の原点は此処
  にあります。当金井家に伝わる古文書については、下記の通り合計7通です。その全ては、埼玉
  県立文書館に委託契約をして預けてあります。紛失や焼失防止の為です。内容は中世文書2点金
  井家宛、と近世文書5点です。

(1)中世文書

  1、北条氏邦 朱印状 知行宛行状 金井源左衛門尉宛 1通

         天正 8年 3月 6日 西暦1580年

   2、北条氏直 感 状 足利表の戦の感状 金井猪助宛 1通

         天正18年 正月28日 西暦1590年

  当家の墓所は、広木の大興寺であり、そこに金井家と称する墓碑が当家を含めて約22基あり、
  その全てが、当家から分家したものと思われます。(分家の分家も有りますが)
  上記2文書の文面は、当家の家楼塔の裏に、原文と現代文字で刻印してあります。裏側で見難
  いと思いますが、興味のある方は、御覧下さい。
  なお上記金井源左衛門尉の墓碑と思われる秩父石(緑泥片岩)幅600mm高さ173mm厚み
  70mmが家楼塔の隣に立っており、其の形状は、当地方にある板碑に良く似ています。
  夫婦の戒名の他に金井入道(慶長2年主君北条氏邦が金沢で没したので出家したと思われる)と
  慶長9年8月4日の文字が見えます。この墓碑が、当大興寺にある22基の全金井家の先祖の
  墓碑となっています。

  天正18年(1590)6月14日 鉢 形 城(城主 北条氏邦 氏政の弟)前田利家に開城
  天正18年(1590)7月 5日 小田原城(城主 北条氏直 父 氏政) 豊臣秀吉に落城

  豊臣秀吉の小田原征伐の直接の口火となった、名胡桃(なぐるみ)城(真田家の城)事件を
  引き起こした沼田城代の猪俣邦憲は、氏邦の家臣である。 秀吉の策略に乗ってしまった
  と思われる。

    名胡桃城事件

  天下統一を狙う、豊臣秀吉は、北条家(氏直・氏政)に上洛を迫っていたが、北条方は上洛
  を引き伸ばしていた。天正17年(1589)上州沼田の地をめぐって争った北条と真田
  は、沼田城を北条に引き渡すという豊臣秀吉の調停で和議をする事となったが、真田家は
  不満で悔しかった。名胡桃城と沼田城は、利根川を挟んで、約5kmと目と鼻の先に等し
  い距離であった。北条方は氏邦の家臣 猪俣邦憲が城代として、沼田城を受け取った。
  猪俣は、目前の名胡桃城がめざわりで仕方なかった。猪俣は、どちらかというと武に勝る
  男であった。目前の名胡桃城が欲しくなり、奪取してしまった。 真田の城将鈴木重則は、
  責任を取り割腹した。これに激怒した秀吉は、ここぞとばかりに、北条に対し有名な宣戦
  布告状を発した。 天正18年(1590)3月29日に秀吉の小田原征伐が始まったので
  ある。 5代・100年の後北条家は、この事件を発端として滅亡したのである。
  あくまでも真相は不明であるが、 上洛を引き伸ばして約束を果たさない北条を陥れる為
  秀吉が巧妙に仕組んだワナという説もある。

  戦いの後の処分

   1)北条氏邦 前田利家のすすめにより鉢形城を開城したので前田家にお預けとなる。
          氏邦は、慶長2年8月8日(1597)金沢にて没す。

   2)北条氏直 豊臣秀吉の考え方で、主戦派は氏政・氏照(八王子城主)兄弟である。
                   又、氏直の妻女は、徳川家康の娘、督姫である事から家康のとりなしで
                   死罪とはならなかった。氏政、氏照と重臣2名の合計4名は切腹となり、
          天正18年8月11日に刑の執行がなされた。氏直は29歳で天正18年
                   7月20日高野山に流される。天正19年11月4日大阪にて病没した。

(2)近世文書

        1、松 平 陸奥守(伊 達 綱村)   宛先 上池院 人々 御中
      2、酒 井 雅楽守(酒 井 忠清)   宛先 長徳院 人々 御中
       3、小笠原 大和守(小笠原 長宣)  宛先 大久保 三郎左衛門 様
       4、井 伊 掃部頭(井 伊 直孝) 宛先 村 越 次左衛門 様(茂助様 人々御中)
      5、猪 飼 半助 正弾書状     宛先 大興寺、常福寺、清統院 人々御中

   埼玉県立文書館の当金井家に対する記述

    金井家は旧那珂郡広木村(現児玉郡美里町)の在地士豪の系譜をひき、鉢形北条氏邦家臣団の
  一人であった。中世文書は2点、一つは、天正8年(1580)に推定される北条氏邦の朱印
  状で、無足であった金井源左衛門尉の走廻りを賞して広木(鉢形城から北へ約10km)及び
  西上州に知行地を宛行ったもの。 もう一つ天正18年と推定される北条氏直の感状は、豊臣
  秀吉の小田原攻め直前に起きた足利表の合戦の功を賞したものである。
  近世文書は5点あり、井伊直孝、小笠原長宣、酒井忠清、伊達綱村 等著名な大名達で内容は
  (能の招待状礼状及び病気見舞礼状等)儀礼的なものである。 その他、猪飼半助書状が一通
  あります。猪飼半助は旗本であり、これらの伝来は不詳。猪飼半助の書状は、広木村の大興寺、
  常福寺、清統院宛となっている。旗本猪飼氏は文禄年間から広木村を知行地としており、大興
  寺が墓所で、金井家も又大興寺が墓所であるので、この文書が金井家に有るのは推察できる。
  半助は猪飼氏の系図に見えないが、猪飼氏の一族とおもわれる。

Ⅱ、田村家文書について
                             平成18年 8月 9日 輝夫記
                             平成22年 9月15日 追  記
 (1)前書き

   参考資料 美里村史史料調査報告書 第2集 美里村史料 美里村史編纂委員会

  上記資料の田村家文書の内で金井家に関係する文書が見つかったので、そのことに付いて記
  述しておきます。なお、調査中なので、今後調査で判明したことは、順次書き加えて行きます。
   田村さんに頼んで、下記文書の写真を撮影させてもらえる様にお願いをしています。

 (2)田村家所蔵文書の概要

   1、所蔵の文書559点である。
   2、田村家は昔 柿沼氏(或いは柿氏?)と称した。
   3、田村家には、慶長の頃の文書が数点あり、元和、寛永、慶安とかなり古い文書が数多く、
     貴重なものである。
   4、租税関係では慶長13年(1608)から明治2年(1869)までほぼ各年の文書が
     揃っている。
   5、村政関係は元禄4年(1691)から明治初年まであり、文化3年(1806)以降明治
          初年に亘る文書が多く、村方役人の仕事が多忙となってきたことを示している。

 (3)金井家と田村家の関係

   詳細は不明であるが、見つかった文書の宛先が、かない源左衛門、柿 弥七郎、かない二郎助
   となっているためこの文書が田村家所蔵となっているのは理解できる。 それと、家の敷地が
      隣り合っていることもある。 当時、両家が偶然に同じ様な村方役人であったと言えるのでは
      ないだろうか?

 (4)金井家に関係する古文書について

   美里村史料101ページ B-土地
   カード番号 46
   標題補題 進上(荒地おこしの儀ニ付)
   西暦 1597
   和暦 慶長2年3月8日
   出所 伊若狭守
   宛所 かない源左衛門 殿、柿 弥七郎 殿、かない二郎助 殿
   形態 状

     上記 伊若狭守とは、どんな立場の人か? 柿弥七郎殿は、柿沼氏(現在の田村氏)と思われる。

 (5)金井家に関係する古文書(原文)

   (16) 進  上

   去年荒地弐町おこし候ハんとの約束ニて候へ共たゝ今皆々こんきゅう故迷惑之由尤無余儀候左様
   ニ候ハゝ先此儀をやめ日頃之田畠以下所務能成候まゝせいニ入られ候ハん事専一ニ候惣別此おこ
   し之事ハ猪かい殿以御肝欠(懸)皆々いのちニかへて御約束申候之間御ゆるし可有儀ニハ候ハね
   共郷中之事及見勝手さのまゝ我等れんミんニ如此候とくと分別候て何事も以来せいニ入させられ
   へく候金五郎とかく申候共我等一礼遺上ハ相違有間敷候 伋件如

     慶長弐 酉 三月八日           伊若狭守 印

     かない源左衛門 殿
     柿 弥七郎 殿
     かない二郎助 殿

      上記文書により鉢形城が前田利家に開城、小田原城も豊臣秀吉に落城、武家も帰農し、田畑
   即ち土地が不足し、荒地おこし(開墾)せざるを得ない当時の様子が伺える良い資料と言える
   のではないか?。又、旧武家と新体制の役人や農民とのやりとりの様子が伺える資料でもある。
   命に換えても約束をはたすと、その真剣ぶりにも興味を引かれる。
   上記宛名のところにある "かない二郎助なる人物は初見なり、かない源左衛門とどんな関係に
   有るのか不明、親子なのか? 親戚なのか? 他人なのか? なぜ金井猪助ではないのか?
   金井猪助が二郎助と改名したのか?等疑問が残る。

  Ⅲ、中世の古文書写真と文書の内容

    写真1:古文書が入っていた文箱と7通の古文書

      写真2:武州 鉢形城主 北条氏邦 朱印状

    1)原  文

          北条氏邦 朱印状

          知行方

         四貫文 広木御領所分
         拾貫文 於西上州被下

          以上拾四貫文

         右近年無足おいて走廻
         候間如斯出置候壱疋一両
         相嗜弥々可走廻進退
         不被罷成ニ付而者重而可加
         扶持者也仍如件

          辰 (氏邦)

           三月六日(象朱印「翕邦挹福])

         金井源左衛門尉 殿

    2)解 釈 文(埼玉県立文書館)

          知行方

         四貫文 広木御領所分(旧那珂郡にあった)
         拾貫文 西上州において下される

          以上拾四貫文

         右は、近年無足(領地なし)で走り廻ったので、この様に領地を出し置くもの
                  ある。壱疋一両(領)を相嗜み(あいたしなみ)いよいよ走廻りなさい。
         また進退がならなくなったら、重ねて扶持(ふち)を加えるものである。
         仍て件の如し。(よってくだんのごとし)

    3)解  説(埼玉県立文書館)

         この文書は、後北条氏(小田原北条氏)の重要な支城のひとつであった鉢形城
         (現寄居町)の城主北条氏邦より家臣団の一員となった金井源左衛門尉に新たに
                  領地を与えたものである。(これを知行という)後北条氏の知行宛行(ちぎょ
         うあてがい)には二様有った事が知られている。一つは、先に知行宛行の約束
         をして参戦をうながし、戦功を上げて後この約束を果たす形で行われる知行宛
         行。 もう一つは、この宛行状の如く、無足(知行地が無い事)のままで働た
         褒賞として知行地が与えられる場合があった。これは、自主的に合戦に参戦し
         て行く支豪層を積極的に家臣団編成の内に取り込んで行こうとする戦国大名北
         条氏邦の姿勢を良く示している。氏邦は、無足で働いた金井氏に対し直轄領の
         内から4貫文の地をさいて与えたものである。また本資料からは、次のような
         ことがわかる。一疋一両(領)相嗜みとあるように、一疋の馬を持ち一領の具
         足を持ち、何時でも戦力となりうる存在が、戦国大名の家臣団として一般的な
         姿であった事がわかる。名将の声の高かった氏邦らしく、若し進退がならなく
         なったら重ねて扶持(給与)を加えると記し、家臣団の保護育成に意をもちい
         ていたことが伺える資料である。

    象朱印「翕邦挹福」について(埼玉県立文書館)

         写真2をご参照下さい(三月六日の日付けの所に朱印の赤色が見える)

         この印判は、氏邦が用いた三つの印判の上部に象が彫られ、判文は、翕邦挹福
         (きゅうほうゆうふく)と読まれ、邦(とも)を翕(あつ)めて福を挹(つか)
         む、と解されている。氏邦は一つの印判を十ニ支で一回り以上使用しておらず、
         ゆえに十二支の記載と印判の形だけでも正確に年代比定をすることが出来る。
         そこで、 この文書の場合、第二番目の印判の使用時期は、永録十二年巳
                  (1569)から天正八年 辰(1580)と解った。

    4)疑問と想像(間違いかも知れないが後日のため記述する)

      1、四貫文 広木御領所分について

        広木は、鉢形城から直線距離で北え約10kmで、間道の円良田湖を経由する
        と以外に近い。(馬で飛ばせば早い)そこで金井源左衛門がこの広木に居を構え、
                墓所も広木の大興寺にした事は、尤もである。氏邦がわざわざ直轄領をさいて、
                金井家にこの地を与えたのは、これらの総てを考慮した上の事と考えられる。
        私も広木で育ったので、この地の風習や地理は理解している。

            2、拾貫文 於西上州被下について

         西上州とは、何所か? 現群馬県の西側。この事については、誰からも聞いた
         ことが無い。不思議だ? 広木の事を考えると相当広い土地が考えれる。
         鉢形や広木から、そんなに遠くない場所と思われる。
                  そこで、現在の埼玉県に近い群馬県の西側で金井と称する地名を探して見た。
         2か所見つかったので、下記する。

         1)群馬県藤岡市三名湖貯水地付近に金井の地名が見える。
         2)群馬県甘楽郡甘楽町で上信電鉄の上州新屋(じょうしゅうにいや)駅
           付近に金井の地名が見える。

             3)上記2ケ所現地を訪ね、地名の由来を調べたいと思っている。


   写真3:小田原城主 北条氏直 感状

     1)原  文

          北条氏直 感状

         去る廿四日於足利表
         敵一人討搦候高
         名之至神妙候弥
         下走廻候也

         正月廿八日 北条氏直(花押)

          金井猪助とのへ

           2)解 釈 文(埼玉県立文書館)

                  去る廿四日 足利表において
                  敵一人討捕たのは
         高名のいたり 神妙である
         いよいよ走り廻りなさい(ますます良く働きなさい)

     3)解  説(埼玉県立文書館)

         本文書は、後北条氏の小田原城本城主である北条氏直より金井猪助に出された
         感状である。源左衛門と猪助は、親子である。文意は、さる(正月)二十四日
         に下野国足利での戦功を賞したものである。本文書は天正十八年に比定される
         が、この年は、天正十七年(1589)十一月二十四日の豊臣秀吉の後北条氏
         に対する宣戦布告をうけて、戦備にあわただしいなかに出されたものである。
         同様の文書が他に2点残されている。 (新編埼玉県史 資料編六参照)
         常陸の佐竹義重が軍勢を足利に出して北条と合戦に及んだのであり、かなりの
         合戦であったらしい。

上から順に 写真1、写真2、写真3

http://9317.teacup.com/inaka/bbs/2

 

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